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熊本お土産の工芸品
山鹿灯籠 第12代景行天皇の筑紫路(福岡)巡幸のとき、山鹿で一面の霧が 進路をはばんだため、里人はたいまつを掲げ一行を迎えました。 その後これ記念して,たいまつを行在所(現在の大宮神社)に献ずる 火祭りが行われるようになりました。 応永年間(1394〜1428)には、紙細工で金灯籠を模したものが 作られ、大宮神社に奉納されるならわしとなりました。これが、現在の山鹿灯籠。 山鹿灯籠は、和紙と糊だけで作られる立体的構造の工芸品で、他に寝殿造り、 有名な建物の作品もあります。 細かい部分まですべて中は空洞になっております。 |
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肥後象がん |
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宮地手すき和紙 慶長5年(1600)の関ヶ原の合戦後 柳川藩主であった立花氏が一時肥後藩主に 預けられたことがあり、その際、藩主に同行 した御用紙漉きの矢壁氏に、加藤清正が紙漉き を命じたことが始まりといわれています。 矢壁氏は、八代宮地の中宮川沿いで紙漉きを 始めましたが、この紙漉きの技法は越前奉書紙 の流れを汲むといわれています。 |
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キジ馬 800年前、平家の落人が球磨地方にのがれ、人吉の奥地に住み着いたとき、京の暮らしを懐かしんで、作り始めたと伝えでいます。 霧、ダラ、藤、柏の木を材料、 黄、緑、赤の素朴な色付けで、人吉で開かれる、えびす市で売られていた。 |
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おばけの金太 加藤清正が築城の際、金太という足軽がいて顔立ちが面白く人を笑わせるのが上手で「おどけの金太」と よばれy人気ものでした。 19世紀の中ごろ、人形師の西陣彦七が金太の伝説にカラクリ人形を作りだしたのが原型。 紐を引くと、目玉がひっくり返り、長い舌をペロリと出す。 |
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肥後のてまり 芯にへちまを用い刺繍糸で、洋々な文様を施したてまり。 てまりの唄の「あんたがたどこさ」に出てくるまりは、この肥後のてまり。 |
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おきん女人形 おきん女人形は、八代市日奈久で桐材に着色して作られる。 主に幼女g着せ替え人形や、ままごとに使う。 お土産、飾りとして愛用愛用。 |
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小代焼 熊本県北部の、小岱山麓で約400年前から焼かれています。 1632年細川忠利の、肥後入りに伴って、豊前国、桂の源七(牝小路家初代)及び、八左衛門(葛城家初代)が現存の南関に移り住む。 この2代が創始とされる。 以来、肥後藩の御用窯としおて代々伝承いています。 鉄分を多く含み、小石粒が多い小代粘土に藁灰、木杯などを釉薬として用い、素朴で力強い作風に特徴があります。 |
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天草陶磁器 天草投石は、日本一豊富な天草陶石や陶土を使った磁器、陶器です。 磁器は1676年に現在の天草郡苓北町の内田皿山で焼かれています。 1762年には、天草市天草町の庄屋、上田家も肥前の陶工を」呼んで磁器を焼き始めています。 純度の高い良質な天草陶石を使った、透明感のある作品、温かみのある作品が特徴です。 陶器は1765年現在の天草市本渡で岡部家、江戸後期、金澤家が始めた。 性質の異なる釉薬の二重掛けの技法を用いた海鼠(なまこ)釉や黒釉の個性的な作品が多い。 |
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高田焼 1632年細川家転封により、八代城に入城した細川忠興に従い豊前国上野から八代へ移った陶工、 尊楷(そんかい)が、現在の八代市に窯を築いたのがはじまりです。 素地に文様を刻み、白い陶土を埋め込んでいます。 透明釉をかけ胎土に含まれた鉄分で碧色(へきししょく)に発色させます。 |
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竹工品 熊本は豊富な資源に」恵まれ、農具、漁具、ざる、しょうけのような荒物とよばれている実用品がつくられてきた。 竹細工の職人たちは、かっては村々を回り注文に応じて仕事をしたり、竹林に工房を構えた。 また芦北郡芦北町で大正の待つ末期から作られている。 肥後三郎は、強さと気品を兼ね備え作られています。 |
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木工器 良材に恵まれた熊本は、江戸時代から木工器が作られでおり、人吉球磨地方の挽物(ひきもの)、たんす などの家具類、熊本市川尻の桶、樽などは有名です。 また、この他にも、象嵌の技術を施した指物、らんま彫刻など、ち密な技術をくした作品が製造されています。 |
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人吉の家具 けや木、桑、桜などで作くる。 一枚板で、かな釘使わない。 |
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肥後ごま 肥後こまは、インドネシアから中国を経て仏教とともに伝来したものと、中国から朝鮮を経て伝来したとされています。 熊本城城主・加藤清正公より約400年の伝統工芸品。 |